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「スタッフのつぶやき」

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道南の史跡・穴場めぐり⑩-<会津藩陣屋跡>

投稿者: asai

道南の史跡や穴場を紹介します。

今回は「会津藩陣屋跡」です。
場所は北斗市飯生、ラッキーピエロ北斗飯生店のすぐ隣です。

現在は陣屋跡を偲ばせるものは一切なく、
小さな公園の中にこぢんまりとした神社が建っているだけでした。
なぜ会津藩の陣屋が北斗市にあるのかというと、
幕末、ロシア船が度々樺太や蝦夷地の漁村で略奪を行っていた為、その襲撃に備えるよう、
会津藩をはじめとする東北諸藩が蝦夷地の警備を幕府から命じられました。

会津藩の担当は別海、標津、網走、雄武の道東沿岸地域と樺太でした。
主力部隊は標津、樺太に駐屯していましたが、会津本国との中継地として
北斗市飯生に陣屋を築き、そこに40名ほどが常駐していたそうです。

警備にあたっていた兵士達は、野菜不足からビタミンを摂ることが出来ず、
水腫病にかかる兵士が多数おり、事態を重く見た幕府は水腫病対策として
効果があるとされたコーヒーを警備隊に送ったといいます。

会津藩が出兵中はロシアと交戦することなく撤収しますが、
部隊の統率・練度の高さなどを幕府から評価され、篤い信頼を得たといいます。

余談ですが、会津藩主松平家の藩祖である保科正之は、
徳川家康の孫にあたる人物です。
その為、元々幕府徳川家との縁は深く信頼もあったのだと思いますが、
北方警備での評価は、のちに江戸湾警備、さらには京都守護職を任されることになります。
長きに亘る幕府への忠義と幕府からの信頼、そして役職に対する責任感が
戊辰戦争での会津藩の去就を左右したのではないかと思いました。

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by asai


e_keizu2015年12月14日9:10 AM

道南の史跡・穴場めぐり⑨-<榎本軍鷲ノ木上陸地跡>

投稿者: asai

道南の史跡や穴場を紹介したいと思います。

今回は「榎本軍鷲ノ木上陸地跡」です。
場所は国道5号線沿いの森町鷲ノ木にあります。
函館から札幌方面へ向かい、森町の道の駅を越すと右手に看板が出てきます。
さらにそこから3~4Kmほど行くと、右手に小さな看板があり、そこを曲がるとすぐに神社があります。
その敷地内が公園になっており、駐車スペースがあります。

案内板1
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榎本武揚は天保7(1836)年、旗本の家に生まれ、幼少から儒学・漢学・英語を学び
安政3(1856)年、幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所。西洋の学問や航海術を学びました。
ちなみに英語はジョン万次郎から教わっています。
文久2(1862)年にオランダへ留学し国際法や造船などの知識を学んだのち、
慶応3(1867)年、幕府がオランダへ発注していた「開陽丸」に乗り帰国します。

帰国した慶応3年に大政奉還があり、翌4年1月に鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まります。
榎本は幕府艦隊を率い大阪湾で薩摩藩海軍に勝利するも徳川慶喜が大坂城を脱出。
慶喜は新政府軍に恭順を示しますが、榎本は徹底抗戦を主張します。
4月、江戸城無血開城の際、一部の軍艦引き渡しに応じますが、
8月、開陽丸など8艦からなる主力艦で江戸を脱出、奥羽列藩同盟の支援に東北へ向かいます。
9月、東北へ到着した頃には米沢藩、仙台藩、会津藩などは降伏しており、
大鳥圭介、土方歳三などを加え、蝦夷地へ向かいます。
そして10月19日、鷲ノ木へ上陸します。

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案内板2

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案内板によると、「上陸時の鷲ノ木は、積雪30cm、北西の強風で波は荒れ、暴風雪であった」

なにやら、その後の榎本らの行く末を暗示するかのような天候だったようです。


e_keizu2015年5月8日8:34 AM

道南の史跡・穴場めぐり⑧-「意冨比神社」

投稿者: asai

道南の史跡や穴場を紹介したいと思います。

今回は「意冨比(おおひ)神社」です。
場所は北斗市本町2丁目8(旧大野町本町)にあります。

北海道最古と言ういわれがある神社で、箱館戦争の舞台にもなった場所です。

本殿正面
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この神社には、平安時代の「康平三歳」(1060年)の銘が入った鰐口があり、
その頃の創建だとすると道内最古となるそうです。
しかし明暦2年(1656)に再建された記録は残っていますが創建年代は不明なんだそうです。
道内最古とされる神社は他にもいくつかありますので、いずれ紹介したいと思います。

鰐口とは、Wikipediaによると
仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種で、神社の社殿でも使われるものだそうで、
写真を撮った日は扉が閉じられており、本殿中の様子や鰐口は見ることが出来ませんでした。
正確な創建年代は分からないにしても、1060年というとても古い鰐口があるのですから、
古来から重要な祭祀の場だったんではないでしょうか。
ちなみに日本最古の鰐口は長野県にある長保3年(1001)のものだそうです。

境内には「大野稲荷神社」もあります。

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案内板を見ると

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意冨比神社境内にある「倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」をまつる稲荷神社で、
安政年間(1854~60)に作成された『大野村絵図(北斗市指定文化財)』に、
西鍛冶在所(現南大野)に稲荷と山神を祭る社祠(しゃし)がみられ、
「境内880坪」と記載されている。
意冨比神社の記録によると、明治19年(1886)、境内に稲荷神社を合祀したと
あり、西鍛冶在所から移転したものである。昭和2年(1927)、冨谷千代さんが書
いた綴り方「稲荷祭の日」に余興の様子が詳細に描写されている。
また、昭和18年ごろ、社殿前で写した一枚の集合写真が保存されており、神社
関係者や村の主立った27人の面々が並んでいる。このことからも当時祭礼がかな
り盛大だったことがうかがえる。

 

境内には他にも忠魂碑や箱館戦争の説明板もありました。
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e_keizu2015年2月23日8:51 AM

道南の史跡・穴場めぐり⑦-「四稜郭」

投稿者: asai

道南の史跡や穴場を紹介したいと思います。

今回は「四稜郭」です。
場所は函館市陣川町にあります。

函館の五稜郭は有名ですが、四稜郭は地元の人でも
名前は何となく知っているけど、どこにあるのか知らないという人が
多いのではないでしょうか。

そんな四稜郭は、その名の通り、4つの突起を持つことに由来する
国の指定文化財史跡です。
四隅には砲座が設置されいたと思われ、郭内には建物はなかったとされています。

案内板を見てみましょう。
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「昭和9年1月22日史跡指定
明治2年(1869)春、五稜郭にたてこもる旧幕府軍脱
走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いたが、
五稜郭の背後を固めるため、その北方約3キロの緩斜面台
地にも洋式の台場を急造した。
これが四稜郭である。
四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土
塁と空壕をめぐらし、郭内(面積約2300平方メートル)
には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。
なお、地元の言い伝えによると、旧幕府軍脱走軍は士卒約
200名と付近の村民(赤川・神山・鍛冶村)約100名を
動員して、昼夜兼行で数日の内にこの四稜郭を完成させ
たといわれている。
明治2年5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を開始した。
同日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を
出発し、四稜郭の攻撃を開始した。松岡四郎次郎率いる旧
幕府脱走軍は四稜郭の防御に努めたが、新政府軍には福山
藩兵も加わり、さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位
置する権現台場を占領したため、退路を断たれることを恐
れた旧幕府脱走軍は五稜郭へと敗走した。
5月18日には、五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降
伏して箱館戦争は終わった。」

郭内の様子です。

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五稜郭の防衛拠点として築城された四稜郭ですが、
実際眺めてみると、五稜郭は思ったより遠くてよく見えませんでした。
当時の人の距離感は現代人とは異なると思いますが、
ここから五稜郭を守のには随分遠いなぁと思いました。

by asai


e_keizu2014年12月2日1:20 PM

道南の史跡・穴場めぐり⑥-「戸切地陣屋跡」

投稿者: asai

道南の史跡や穴場を紹介したいと思います。

今回は「戸切地陣屋跡」です。
場所は北斗市野崎にあります。

江戸時代末、幕府が外国船に対する警備を松前藩に命じ築造させた陣屋です。
現在は、桜の名所としても有名です。

陣屋入り口の門です。
写真 1

案内板を見てみましょう。
写真 2
「この陣屋は、安政2年(1855)幕府に命じられ松前藩が築いたものです。
構造は、四稜郭で亀が首を出した形をしており六つの砲座があります。
郭内には十七棟の建物があり、約百120人で守備していましたが、完成から
13年後の明治元年(1868)箱館戦争の時、相手方に陣屋が使われないよう
建物に火をつけ焼き払っています。
この陣屋は、保存状態もよく城造りの資料として価値が高いことから、
昭和40年(1965)3月18日、国の史跡に指定されました。」

入り口門横の空堀です。
写真 3

建物跡です。
写真 5

入り口側からみた郭内奥にある盛り土です。
写真 8

陣屋の設計は、松前藩士の藤原主馬で、約4ヶ月という短期間で築造したそうです。
箱館戦争の際、陣屋守備隊は北斗市大野付近で会戦しますが、撃破され陣屋に退却。
旧幕府軍の追撃を見て陣屋を焼き払い、松前及び函館に退却したそうです。

現在ある桜の木は、明治37年(1904)、日露戦争の勝利を記念して、
函館の豪商岩船峯次郎が植樹したもので、
春になると、陣屋登り口の一本道に綺麗な桜のトンネルを見ることができます。


e_keizu2014年10月6日7:53 AM

道南の史跡・穴場めぐり⑤-「日本最古のコンクリート電柱」

投稿者: asai

道南の史跡や穴場を紹介したいと思います。

今回は現存する「日本最古のコンクリート電柱」です。
場所は函館市末広町15-1、二十間坂通りを電車通りの方から
下ってきた交差点の左側にあります。

写真 2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案内板によると、
「この電柱は、大正12年(1923年)10月、当時の函館水電会社(現北海道電力)が建て
たもので、現存するコンクリート電柱では日本最古のものである。
高さ10メートルのこの電柱は、現場打ち工法で、底辺が47センチメートル四方、上辺
が19.5センチメートル四方の鉄筋コンクリート造りで角錐型という珍しいものである。
火災が頻繁に発生した当時の函館では、この頃から耐火建築が増えはじめたが、この
電柱もそのあらわれである。
後に、同型の電柱が建物をはさんで建てられたため「夫婦電柱」と呼ばれて市民の話
題となった。木柱が普通であった当時から今日まで、耐用年数を越えてもなお現役とし
て街の移り変わりを見守っている。」

写真 1

 

 

 

 

 

 

 

函館観光の際、必ずと言って良い程訪れるであろう
金森倉庫などがある函館ベイエリアの近くにありますので、
観光客や修学旅行生などが写真を撮っている姿をよく見かけます。
大正時代と聞くとそれほど古い時代に感じられないかも知れませんが
90年以上も前です。当時の技術の高さを感じます。


e_keizu2014年8月20日7:52 AM

道南の史跡・穴場めぐり④-「高田屋嘉兵衛」

投稿者: asai

道南の史跡や穴場を紹介したいと思います。

今回は「高田屋嘉兵衛」です。
銅像があるのは、函館山の麓、宝来町と末広町の境界にあたる
高田屋通りの緑地帯の中です。

写真 1

天気が悪かったため、写真が暗くなってしまいました。すみません。
台座も合わせると、思ったよりもかなり大きな銅像でした。
僕の見立てでは10mくらいあるように思います。

案内板を見てみると、
「この銅像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して
昭和33(1958)年に建てられた。制作者は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。
嘉兵衛は明和6(1769)年に淡路島に生まれ、28歳の時に函館に渡った。
文政元(1818)年に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営など
を手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、函館発展の基礎を築き、
大きな業績を残した。さらにゴロウニン事件という日露国家間の問題を民間の立場
ながら無事解決に導いたことでも有名である。
この像は、文化10(1813)年、ロシア軍艦デイアナ号が捕らえられていた
ゴロウニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。
右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に
脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。」

写真 2

嘉兵衛は文化3(1801)年、箱館の大火で町の大半が焼失したとき、
被災者の救済や復興事業を率先して行い、
市内の井戸掘りや道路の改修、開墾・植林なども自己資金で行うなど、
また、造船所を建設し、腕利きの大工を多数呼び寄せたといいます。

このように函館の歴史を語る上で大変重要な人物のはずなんですが、
正直、嘉兵衛についてはあまり詳しく知りません。
そこで、これを機会に嘉兵衛の生き様を描いた
司馬遼太郎の「菜の花の沖」を読んでみようかと思います。

写真 3

 

 


e_keizu2014年6月9日5:23 PM

道南の史跡・穴場めぐり③-「ペリー提督来航記念碑」

投稿者: asai

道南の史跡や穴場を紹介したいと思います。

今回は「ペリー提督来航記念碑」です。
場所は函館市元町12-18 元町公園のすぐ下にあります。
箱館が開港したのは知っていてもペリーが来港していたことは、
函館の人も意外と知らないんじゃないでしょうか。
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マシュー・カルブレイス・ペリー(1794年4月10日–1858年3月4日)は、
アメリカ海軍東インド艦隊司令官。
フリゲート艦サスケハナ号を旗艦とした4隻の艦隊(黒船)を率い
嘉永6年(1853)浦賀に来港し、鎖国していたして日本へ開国を要求しました。
勝手に江戸湾の測量をしたり、アメリカ独立記念日に空砲を数十発撃ったり
しながら開国交渉を行います。
ちなみに初め交渉に当たったのは、浦賀奉行所与力の中島三郎助です。
※中島三郎助については「道南の史跡・穴場めぐり②」を見てください。

ペリーはアメリカ大統領親書を幕府へ渡すと「1年後に返事を聞きに来る」といい、
イギリス植民地である香港へ帰りますが、
その半年後の翌嘉永7年(1854)に再び浦賀に来航します。
1年後と考えていた幕府を慌てさせ、優位に交渉するのが目的だったといいます。
交渉の末、幕府は開国。日米和親条約を締結し、下田と箱館を開港しました。
同年、箱館へも5隻の黒船が入港し、港の測量や松前藩との交渉を行いました。

写真 3

箱館が開港したことで、早くから西洋文化の影響を受け、
現在、観光地として大いに役に立っているのはペリーのお陰なんでしょうね。


e_keizu2014年5月12日9:07 AM

道南の史跡・穴場めぐり 番外編

投稿者: asai

今日は番外編です。

函館市の隣町「北斗市」のゆるキャラが最近話題になってます。

北斗市は僕の地元なので、このゆるキャラがいつか全国区になれば嬉しいです。

先日、初お披露目イベントがありました。

写真 2

見ての通り、ほっき寿司をモチーフにしています。

「ほっき貝」は北斗市の特産品なんです。もちろん知ってましたよ。

写真 3

ほぼ全身白いんですが、しっぽの部分が赤くアクセントがあっていいですね。

ちなみにお腹のシャリは、一つ外れ、投げつけることもできるそうです。

写真 5

司会進行は、こちらも地元北斗市のご当地アイドル「北斗夢学院桜組」のお嬢さんです。

週末、市内各所を回ってのお披露目会だったので、短い時間でしたが実物を見ることが出来て良かったです。

これからの活躍を期待しています。

 


e_keizu2014年4月1日6:19 PM

道南の史跡・穴場めぐり②-「中島三郎助父子最期の地」

投稿者: asai

道南の史跡や穴場を紹介したいと思います。

今回は「中島三郎助父子 最期の地」です。
場所は函館市中島町36-12 函館税務署前の中央分離帯にあります。
写真 1

中島三郎助は、江戸幕府の浦賀奉行所与力で蝦夷共和国では箱舘奉行並となり、
土方歳三とともに箱舘戦争を戦った人物です。

写真 3

土方歳三と比べると知名度は低いようですが、どういった人物だったのでしょうか。
案内板をみてみましょう。
写真 2

「中島三郎助は浦賀奉行配下の役人であったが、安政2(1855)年に幕府が創設した
長崎海軍伝習所の一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となった。
維新後、明治元(1868)年10月、彼は榎本武揚と行動を共にし、軍艦8隻を率いて
北海道に来た。箱舘戦争では、五稜郭の前線基地であった千代ヶ岡陣屋の隊長として、
浦賀時代の仲間とともに守備についた。
新政府軍は箱舘を制圧すると、降伏勧告をしたが、中島はそれを謝絶して戦闘を続け、
5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死した。
『ほととぎす われも血を吐く 思い哉』という辞世の句を残した。
昭和6(1931)年に、中島父子を記念して千代ヶ岡陣屋のあったゆかりの地が中島町と
名付けられた。」

中島三郎助は、長崎海軍伝習所時代、勝海舟と同窓で、吉田松陰にも海防について
教授したといいます。また木戸孝允(桂小五郎)は、中島家に住み込みで造船学を学び、
その際に受けた恩義を忘れることなく、中島の遺族の保護を榎本武揚に依頼するなどしました。
明治9(1876)年、明治天皇の東北巡幸に随従し五稜郭へ向う途中、中島父子の戦死地を
通過した際、人目をはばかることなく声を上げて泣いたといいます。

中島町の由来となった人物だということは知っていましたが、詳しいことは殆ど知りませんでした。
木戸孝允のエピソードなどから、とても興味が湧きました。


e_keizu2014年3月3日8:20 AM